第8章
「帰る気ないの? 帰らないなら通報するよ!」
三村加奈子がスマホを取り出して脅す。とはいえ、そんな脅しで田中尚哉が怯むはずもないのは分かっている。だから彼女は言い方を変えた。
「あなたは怖くなくても、田中グループは? それでも平気?」
田中尚哉の身体が、ぴたりと固まった。
大島莉理が淡々と言う。
「帰って。私、ここで少し冷静になりたいの。邪魔しないで。じゃないと……自分で自分が何をするか、分からない」
一拍置き、息を吸う。
「私の性格、知ってるでしょ。追い詰めたら、あなたも私も、ろくなことにならない」
沈黙が長く伸びた末、田中尚哉がしぶしぶ折れた。
「分かった。俺は帰る。だが、離婚の話は撤回しろ」
三村加奈子は怒りで口がひくついた。罵ってやりたい。
どこまで厚かましいのか。
けれど大島莉理は、どこか自嘲気味に笑うだけだった。
「あなたが同意しない、協力しない。それで私、離婚できると思う?」
その一言で、田中尚哉はわずかな余裕を取り戻したようだった。いつもの柔らかな笑みが戻る。
「そうだな。しばらく休め。会社の用が片付いたら、また来る」
三村加奈子が白い目を向ける。
「何が一途ぶってんの。浮気相手と一緒にいるとき、莉理が傷つくなんて思いもしなかったくせに」
田中尚哉の顔が一気に冷えた。
「莉理の前で、あの女の話をするな。あいつは、そんな価値もない」
三村加奈子は言葉を失った。
田中尚哉が去ってもなお、彼女には理解できない。
「……え、あの人、頭大丈夫?」
そこまで見下している相手なら、どうして浮気なんてするのか。
「分からない」
大島莉理は、唐突に思った。もう、彼のことが分からない。
危険な目に遭ったとき、抱きしめた腕をほどかなかった男。――あれが、今ではひどく遠い。
三村加奈子が腕を回して、甘えるみたいに言う。
「莉理がここで一人は無理だよ。田中尚哉がまた来て絡んできたらどうするの? 私のところに来なよ。私も一人だと寂しいし、ね?」
大島莉理も、それができたらと思う。けれど田中尚哉の態度を見る限り、これから先も揉める。加奈子まで巻き込みたくなかった。
「ここで大丈夫。結婚前もここに住んでたし。会いたくなったら来て。部屋は余ってるから、泊まってもいい」
「……ずるい」
相手が医者で、長居できないのを分かっていて言うのだ。
その直後、加奈子のスマホが鳴った。病院からで、手術の人手が足りないらしい。休みは終わり。加奈子は慌ただしく病院へ戻っていった。
一人になった大島莉理は、自分の資産を整理して、背筋が冷たくなる事実に気づく。
少ない。――このマンション以外、ほとんど何もない。
田中尚哉が無一文から起業した頃、彼を支えるために、彼女は裏でチームを作り、昼も夜もなく製品開発を進めた。そうして得た権利を、破格で田中尚哉の会社へ渡し、会社は一気に大きくなった。
田中尚哉はそれで祖父に気に入られ、名義の財産は増えていく。けれど彼女は家庭へ戻った。
損得なんて考えたことがなかった。今日になって、ようやく知る。自分が、ほとんど何も持っていないことを。
このまま離婚したら――彼女は何も得られない。
そのとき、スマホが鳴った。表示は【お義母さん】。
その名前を見ただけで、大島莉理の気持ちがすっと冷める。
田中友里子。彼女の義母だ。
しつこく鳴り続けるので、莉理は出た。ついでに連絡先の表示名を【お義母さん】から――友里子さんへ変える。
通話をつなぎ、スマホをテーブルへ放り投げた。
田中友里子の金切り声が響く。
「大島莉理! あんた何してんのよ! うちの息子が運転してるのに見てないから事故ったんでしょ! 今、家で寝てるの! さっさと転がって来て、ちゃんと世話しなさいよ! 役立たず! 疫病神! 毎日うちの息子の金で食って飲んで! 息子が具合悪いってのに、あんたはのんきにサボって!」
「言い終わった?」
莉理はカード類をまとめ終えてから、ゆっくりスマホを手に取った。
田中友里子は彼女が気に入らない。平凡な家の出で、田中尚哉の役に立たない、と。なのに田中尚哉は莉理と結婚した。そもそも田中友里子自身、人生の悲願が「田中家に嫁ぐこと」だった。
だが、田中尚哉を産んでもそれは叶わなかった。田中友里子の家柄は莉理よりも低く、祖父が相手にしない。田中尚哉の父親に至っては――女好きで、頼れる男ではない。頼れるなら、もっと前に入籍している。
「119番、私がして差し上げましょうか?」
田中友里子がさらに声を尖らせる。
「旦那が脚をケガしたのよ! 見舞いにも来ないの!?」
「私、医者でも神様でもないから。行っても治らないわ」
大島莉理は通話を切った。
田中友里子は顔色を失って震え、ベッドに横たわる田中尚哉を見る。すねに少し擦り傷があるだけだというのに、怒りがこみ上げる。
「ほら見なさい! あんたが選んだ嫁よ! 私のことなんて、最初から眼中にない!」
田中尚哉は冷たい目で言った。
「その態度じゃ、俺だって行かない」
「わ、私は……急だったから!」
いつもなら息子の前では取り繕う田中友里子が、今日は違った。
「それにね、あんたもう加藤柚奈と一緒なんでしょ。だったらこんな女、さっさと捨てればいいじゃない」
田中尚哉の表情が、瞬く間に曇っていく。
田中友里子はそれ以上言えず、車の鍵を掴んで勢いよく出ていった。
大島莉理は考えた。受け身でいるのはまずい。田中友里子の性格なら、押しかけて引きずりに来てもおかしくない。なら、先に行ったほうがいい。
そうして田中友里子の車がマンション下に着くと、そこには待っている大島莉理がいた。
用意していた文句は喉の奥に引っかかり、飲み込むしかない。
車がハクエツ・マンションに着き、部屋へ入った瞬間、田中友里子は堪えきれず噴き出した。
「この疫病神! うちの息子はどんだけ運が悪いのよ、あんたを嫁にしたなんて! 卵も産めないくせに巣だけ占領して何の役に立つの! その死人みたいなツラ、誰に見せてんのよ! 息子も産めないで、田中家の血筋があんたで途切れる! 家柄もない、能もない! うちの子が優しいから置いてもらえてるだけで、あんたみたいなのは身体売るのがお似合いよ!」
一息に吐き出し、反論などできないと踏んだのだろう。
けれど大島莉理は羽のように軽く、言い返した。
「友里子さんは息子さんを産んだのに、田中家に入れませんでしたよね。私は少なくとも、ちゃんと入籍した田中家の嫁です。反面教師の話、もういいですか」
田中友里子の立場は、あいまいだ。表向きは田中夫人と呼ばれているが、入籍も式もないまま、なあなあで田中家に住んでいるだけ。
極端な話、田中尚哉の父が気まぐれを起こして別の女と結婚すると言えば、田中友里子は即座に追い出される。
肺を突かれたように、田中友里子は驚きと怒りで震えた。
「このクズ! いい気になるんじゃないよ!」
腕を振り上げて、莉理の頬を叩こうとする。
大島莉理は予想していたように、すっと後ろへ退いた。
勢いをつけすぎた田中友里子の手は止まらない。風を切って――
ぱんっ。
乾いた音が響き、ちょうど莉理の背後に来ていた、笑顔の加藤柚奈の頬をまともに打ち抜いた。
「きゃっ!」
加藤柚奈が悲鳴を上げ、よろける。頬にはくっきりと五本指の赤い跡。呆然と立ち尽くした。
田中友里子も固まる。
「わ、私は……あんたじゃなくて……!」
騒ぎで目を覚ました田中尚哉が、階段の上からこの惨状を見下ろしていた。頬を押さえる加藤柚奈を一瞥し、それから大島莉理へ視線を移す。
「上がれ。俺と来い」
「田中社長……」
加藤柚奈が何か言いかけたが、田中尚哉の冷えた眼差しに喉を潰された。
二階の部屋。田中尚哉はベッドの端に腰を下ろし、重たい空気を纏ったまま大島莉理を見据えた。
「謝る。俺が短慮だった。お前と田中辰哉を疑うべきじゃなかった」
大島莉理は答えない。五歩ほど手前で足を止めた。
その距離が気に入らない、とでも言うように田中尚哉の眉がわずかに寄る。彼は彼女の存在を確かめたくて仕方がないように、突然立ち上がった。
壁際へ追い込むように距離を詰め、影が彼の顔に落ちる。声がかすれた。
「俺は離婚しない。莉理――この先の人生、お前は俺の妻だ」
